世の中には理不尽なことが多いものだ。いや、多いというより理不尽そのものがこの世界と言ってもいいだろう。
しかし、その理不尽と思う考えの中には、自分のものさしでの判断の場合もけっこうある。
例えば、定年を迎えた役員が顧問として残る場合、功績が大きく、人の育成に人力する役割を担ってきたほどの人なら、残ることに異論はないだろう。
だが、顧問として残っても、日々の業務を行うことなんてほとんど何もないのが現状で、なぜ顧問という肩書で残さなくてはならないのという疑問が次第に湧いてくることがある。
そんな疑問は、さして影響のないことに目をつぶる選択をしなければならない時もあるものだ。
日本的発想から言えば、「付き合いがあるから」「これまでの慣習」「頼まれたから」など、割り切れないことがほとんどだ。
日本は建前の世界で、誰もイヤとか理不尽とか言えないというか、言ってはいけないとブレーキをかける習慣を持つ人種だ。
それがいい時代もあったが、今では曖昧は世界に取り残されるという世代ギャップが起きている。
世の中には、さまざまな異なる価値観、考え方をもつ者たちが生きている。
だから、皆違うというグローバル観も合わせ持たなくてはならないのだ。
自分の価値観の中に収めようなんてとうてい無理な話なわけで、それをいちいち批判して、排斥しようとムキになることが結果として、自分の世界を狭めてしまうことにもなりかねない。
大勢に影響のない些細なことにはある程度目をつぶっても、自分の人生の信念、経営の理念哲学に反することは主張し、貫いていくことは外さないことは重要なこと。
考え方としては、広大な海の在り方を参考にできるのではないかと思う。
海は、汚染された水、汚物、油などが流れてきても、排除しようとはしない。
大きな器によって、流れてきたものを受け入れ、やがて、もろともせず浄化してしまう。
何が来ようと「青く澄んだ海」のままである。
どんな考え方も違いも、大した影響は受けない!
この考え方が柔軟さを生み出す「清濁併せ呑む」ほどの、グローバル人間になれるのではないかと思う。